三十番神


かつて善性寺には三十番神が祀られていました。

「三十番神堂 当村(谷中本村)ノ鎮守ナリ 毎年正月十五日祭レリ」

『新編武蔵風土記稿』

 

三十番神とは、一か月三十日の間、毎日交代で国家と国民とを守る三十の善神のことで、法華守護三十番神、法華三十番神、また単に番神ともよばれています。

 

殊に日蓮宗では鬼子母神信仰と並んで、篤い信仰が寄せられました。

 

日蓮聖人が遊学中に、この三十番神がつぎつぎと姿を現わしたと伝えられていますが、一般的に日蓮宗での起源は、第三組・日像上人が布教のため京都の入った永仁二年(一二九四)以降のこととされています。

 

おそらく神祗信仰の盛んな京都での伝道に苦労した日像上人が、当時比叡山で信仰されていた三十番神を日蓮宗内にとり入れることによって、布教・信仰の円滑化と融和をはかったものでしょう。

 

残念なことに第二次世界大戦の空襲禍によって焼失してしまいました。

隼人稲荷


善性寺の隼人稲荷
善性寺の隼人稲荷

稲荷稲の穀霊に起源をもつ食物の神として、古くからもっとも広く庶民に親しまれていた現世利益神で、近世以降は全国津津浦々にまで分布しました。

 

稲荷神は陀枳尼天ともよばれています。人の心の垢を食い尽くす夜叉、また羅刹の一種で、自在の力を持つといわれ、鬼神形で狐の背にまたがり、剣と宝珠を持つ三面二臂像が多く作られました。

 

稲荷の神使である狐は、尾の形が竜王の脳の中から出た珠(如意宝珠)に似ていることから、これを持つとあらゆる願いがかなうとされ、とくに縁起がよいとされています。

 

善性寺の稲荷神社は俗に「隼人稲荷」とよばれ、江戸時代のころは裏門からおよそ一町ほど入ったところに建てられていました。

 

いわゆる「裏鬼門除け」の稲荷社で、現在地に移されたのは戦後になってからのことです。

不二大黒天


善性寺の不二大黒天
善性寺の不二大黒天

大黒天梵名を摩訶迦羅天といいます。摩訶は大、迦羅は暗黒を意味するところから大黒天とよばれるようになりました。

 

インド・中国では古くから寺院の守護・豊饒をつかさどる神として祀られていましたが、仏教にとり入れられ、甲子待ちの主尊として、また福神信仰の代表として、近世以降は庶民になじみの深いものとなりました。

 

像容は、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌をもって米俵の上に立つ形が一般的ですが、善性寺境内の大黒天像は、脚を投げだして坐り、右肩に小槌をのせ、左手に持った小判を人びとに分け与えようとしている珍しい姿態の尊像で、安土桃山時代(1568〜600)の作と伝えられています。