善性寺 略年譜


建長6年〜文応元年頃(1254〜60)

日蓮聖人の威徳にふれた農士・関善左衛門、その宅地内に小宇を創し、祖師像を安置す。これを当山の濫觴とする。

 

正嘉 年中頃(1257〜9)

中老僧・日源上人、関氏(善左衛門の一族)の邸内に小堂宇を創し、日蓮聖人御自作の御影を安置す。

 

弘安5年(1282)

10月13日、日蓮聖人、池上宗仲の館にて入滅す。

 

文明 年中(1469〜86)

日耀上人(関氏)、日源上人の創した小堂を一寺と改め開創す。関小次郎長耀入道道閑を開基とす。長耀山感応寺。

 

長享元年(1487)

8月、日嘉上人(感応寺二世)善左衛門の宅地内の小宇を一寺として開創し、関妙山善性寺と号す。

関小次郎長耀入道道閑開基にあたる。

 

永正3年(1506)

7月3日、開山・日嘉上人示寂す。

 

天正10年〜18年(1682〜8)

五世・日義上人(関氏)。多くの田畑を寄進し寺領とす。このころの当山は、現在地よりやや東方に位置したという。

 

天正18年(1590)

徳川家康、江戸へ入部す。

 

慶長8年(1603)

家康、征夷大将軍となり、江戸幕府をひらく。

 

元和元年(1615)

幕府、「諸宗諸本山諸法度」を定む。当山、改めて感応寺と本末関係を結ぶ。

 

寛永8年(1631)

幕府、新寺の健立を禁止し、諸宗本山に末寺帳の提出を命ず。当山、感応寺末。

 

寛永17年(1640)

幕府、宗門改役を設け、「宗門改帳」を作成す。これにより「寺請制度」を確立す。

 

正保3年(1646)

当山境内地および周辺地域は東叡山領となる(『新編武蔵風土記稿』)。

 

寛文2年(1662)

甲府宰相・徳川綱重(三代将軍・家光の二男)の側室・お保良の方、十世・日逕上人に帰依し、安産福子の祈祷を請う。

日逕上人至誠をつくす。4月、お保良の方、綱豊(六代将軍・家宣)を産む。この年、当山を現在地に移し寺容を整う。

 

寛文3年(1663)

10月、お保良の方、二男・吉忠(松平右近将監清武)を産む。

 

寛文4年(1664)

2月28日、お保良の方歿す。遺命により当山に葬す。専光院殿修観日妙大姉(のち長昌院殿天岳台光大姉)。

 

寛文6年(1666)

幕府、不受不施を邪義として禁圧し、大弾圧を加う。当山、不受不施義を信奉す。

 

寛文9年(1669)

幕府、不受不施寺院より「寺請証文」の保証資格を剥奪し、檀徒家との離反を計る。

4月12日、日逞上人示寂し、のち12年ほど無住寺となる。

 

天和2年(1682)

お保良の方に日逕上人への帰依を勧めた老女・お虎(松平氏)が、剃髪して法尼となり境内に小庵を結んで住し、仏像をはじめ屋敷地を買添え、諸道具等を寄進す。その功により加歴して十二世とす。

 

元禄4年(1691)

幕府、不受不施の谷中感応寺を天台宗に改宗す。当山、本山・感応寺と同刑となる。

 

元禄12年(1699)

十三世・日性上人の嘆願・奔走により、身延山久遠寺の直末寺となり、「永聖跡客座席」の寺格を与えられる。このおり「飯高檀林三谷」の一つ「中台谷」の法脈に属す。

 

元禄 年中(1688〜703)

庶民の生活一応安定し、寺社詣でが盛んとなる。日蓮聖人ゆかりの寺院である当山へ、多くの参詣人が訪れたと推定される。

 

宝永元年(1704)

甲府宰相・綱豊、五代将軍・綱吉の養子となり、名を家宣と改る。

 

宝永2年(1705)

四月、家宣の母堂の菩提寺のゆえをもって、武蔵国足立郡伊苅村(川口市)に「百十二石九合」の朱印寺領地を賜う。

10月、家宣の母堂の柩櫃を東叡山霊屋へ改葬し、長昌院殿天岳台光大姉と改む。このおり、東叡山の年貢地であった当山の境内地「八百四十三坪」を拝領す。このころ家宣の弟・越智清武、当山に隠棲し、狩の途中、家宣しばしば当山を訪れ清武と懇談すという。(荒川区史)

 

宝永4年(1707)

1月、清武、松平の称号を許され(俗に越智松平)、館林藩主となる。はじめ出羽守と称し、のち右近将監と称す。

 

宝永6年(1709)

家宣、六代将軍となる。家宣、機会あるごとに当山へ参詣に訪れる。

山門前の音無川に架かる橋を「将軍橋」と呼ぶようになるのはこの頃のこと。

 

宝永7年(1710)

十四世・日性上人隠居す。日位上人、檀信徒の間を奔走して浄財を集め、寺容を整え、その功により十五世に加歴す。

 

正徳2年(1712)

10月、将軍・家宣歿す。遺命により清武、二万石を加増され、五万四千石を領す。

 

享保9年(1724)

清武、幕府より越後(新潟県)の御料「四万七千石」を預けらる。9月16日、清武歿して当山に葬す。

本賢院殿養意日学大居士と号し、代々の葬地とす。

 

享保13年(1728)

7月28日、二代・武雅歿し、当山に葬す。9月、三代・武元(水戸・徳川頼房の曽孫)、陸奥(福島県)棚倉藩へ移封さる。

 

享保16年(1731)

9月27日、十四世・日性上人示寂す。その功績著しく、当山中興と称す。

 

延 享 3年(1746)

三代・武元、旧領館林藩へ入封す。翌4年、老中となる。

 

寛延3年(1750)

幕府、「身延山久遠寺は、飯高三谷より化主交替に出世住職すべき」旨を命ず。

これにより当山は中台谷(飯高三谷の一つ)の「出世寺」となる。このころより当山の寺運、次第に降昌か。

 

明和6年(1769)

武元、七千石を加増され、六万一千石となる。

 

安永3年(1774)

十八世・日唱上人、久遠寺四十六世化主となる。

 

安永5年(1776)

日唱上人、不受不施義を信奉したとの理由から入牢を命ぜられ、翌六年牢内で示寂。久遠寺の歴世から除歴され、俗に「除歴日唱」とよばれる。

 

安永8年(1779)

7月28日、三代・武元歿し、当山に葬す。

 

天明元年(1781)

10月13日、日蓮聖人五百年忌。「法華宗寺院法筵を設く」(武江年表)

 

天明4年(1784)

3月19日、四代・武寛歿し、当山に葬す。

 

享和3年(1803)

五代・武厚(斉厚)、奏者番、寺社奉行を兼任す。

 

文化6年(1809)

2月、中台谷法脈の脱師法類、潮師法類の両法類より、交互に当山住職に出世し、檀越・松平家の裁可を得て、久遠寺へ願い出る仕来たりとなる。

 

文政8年(1825)

二十二世・日住上人、『寺社書上』を提出す。『新編武蔵風土記稿』の当山の記述は、この書上による。

 

文化・文政 年中(1804〜1829)

現在の善性寺祖師像が制作される。

 

天保7年(1836)

越智松平家、館林藩より石見国(島根県)浜田藩へ移封さる。

 

天保10年(1839)

11月25日、五代・武厚(斉厚)歿し、当山に葬す。

 

天保13年(1842)

7月28日、六代・武揚歿し、浜田・妙智寺に葬す。当山に分葬されたと推定される。

 

弘化4年(1847)

9月20日、七代・武成歿し、当山に葬す。

 

慶応2年(1866)

長州(萩藩)再征伐のおり浜田藩出陣す。戦い利あらず、八代・武聰(水戸・徳川斉昭の二子)自ら城を焼き、同藩の飛地領・美作(岡山県)鶴田へ逃がる。これを鶴田藩という。

 

慶応4年(1868)(明治元年)

彰義隊が当山を屯所とする。

浜田藩各隊士や門前で斬り合いした彰義隊隊士の墓がある。

 

明治5年(1872)

二十七世・日暎上人、『本末一派寺院明細帳』を提出す。「檀家七十軒」とあり。

 

明治10年(1877)

七月、二十八世・日爽上人(井田氏)『寺院明細簿』を提出す。

「檀家・八十戸」「境内官有地・八百四十三坪」「境外民有地・七反一畝二十一歩」「本堂再建中」とあり。

 

明治15年(1882)

2月7日、八代・武聰歿し、当山に葬す。

 

明治19年(1886)

浜田藩の受難諸士碑を建立。

 

大正2年(1913)

日謙上人、函館実行寺より特撰住職として赴任し、当山三十一世となる。

 

大正9年(1920)

11月29日、九代・武修歿し、当山に葬す。

 

昭和7年(1932)

音無川暗渠となり、道路拡幅のため墓地の一部接収され、松平家の墓地を移す。

 

昭和20年(1945)

4月13日、空襲禍によって本堂・庫裡をはじめ什物一切が灰燼と帰す。祖師像のみ無事搬出す。

 

昭和21年(1946)

仮本堂・庫裡等を建立す。

 

昭和24年(1949)

四間四面の本堂を再建す。

 

昭和27年(1952)

区画整理により、境内地約五百坪を接収さる。境内地さらに狭小となり、山容一変す。

 

平成元年(1989)

5月、本堂を再建し、落慶法要を修す。

 

平成21年(2009)

10月23日、新供養塔、動物供養塔落慶す。