今日の善性寺


善性寺旧本堂全景
善性寺旧本堂全景

杓子のお曼荼羅、杓子のお祖師様のお寺として由緒あるこの善性寺は、昭和六十三年で丁度開創五百年を迎えました。長享元年(一四八七)谷中の今の天王寺、もとの日蓮宗感応寺の第二世・尊重院日嘉上人が、関家に奇瑞のあった杓子のお曼荼羅をお祠りしたお堂を改め、ご自分の隠居寺に改築し、関善左衛門の名前に因んで関妙山善性寺と名付けたのが始めです。

 

最初は小さなお寺であったと思いますが、後に六代将軍の母上が埋葬されたりして、結構大きな、また名前の知られた寺になったのだと思います。詳しいこの寺の変遷については、『善性寺の歴史』の項でご覧いただきたいと思います。さて今日の善性寺について多少補足させていただきます。

 

今日の善性寺の庭に立ちますと、昔と言っても戦前の善性寺を覚えている方から見ますと、建物から境内まで、なんて小さくなってしまったのだろうか、と驚きなさると思います。三十一世・望月日謙上人が、函館の実行寺から、この寺に特選住職として赴任したのが大正二年、後に日謙上人は昭和六年推されて、身延山久遠寺の八十三世法主に御晋董なされ、その後は三十二世・日雄上人と寺門の発展に努力なされ、昭和二十年四月まで二代にわたって本堂の一部改築、位牌堂お霊屋の建設、庫裡を総二階造りに改築、鉄筋コンクリート二階建の蔵の建設などと寺観の整備に尽くされました。

 

また昭和七年には、門前に流れていた音無川が暗渠になり、道路の拡幅のため墓地の一部が接収され、そこに建てられていた松平家の墓地を改葬し境内の整備が行われ、落ち着いた風格のある、それはそれは立派な寺でした。しかし昭和二十年四月十三日第二次の東京大空襲により、蔵を残してすべてが焼失してしまいました。

 

当時は日雄上人は身延山久遠寺の経理部に勤務、小生は名古屋の中島飛行機工場に学徒動員で東京におらず、この時はまったくの寺族だけであったため大変なことでした。しかし幸いなことに、この大空襲の二日前東京の空に危険を感じて、本堂に安置してあったお祖師様を、蔵の中にあったものを出して、大掃除をしてこの中にお祠りし、又檀家全部の江戸時代からの過去帳をしまいました。このため寺として、非常持ち出しすべき最も重要なものを焼失することを免れることができました。

 

その後一年足らず谷中宗林寺にお世話になっておりましたが、翌昭和二十一年には焼け跡に、仮本堂として十畳一間、庫裡として八畳一間、六畳二間の仮の善性寺ができました。これが戦後の善性寺復興の第一歩です。

 

昭和二十四年には四間四面の本堂が建築されましたが、未だ東京一面焼け野原の中で本建築のとても大きな本堂に見えたのを覚えております。昭和二十七年区画整理のため寺の東南北側が合わせて約五百坪無償提供させられて、現在の前庭の無い狭い善性寺になってしまいました。その後数回の本堂、書院、庫裡の増改築が行われて昭和五十四年にやっと昔の善性寺の面影が、浮かんでくるようになりました。

 

戦後三十四年間少しずつ手を入れて来たのですが、この間檀信徒、並びに有縁の方々のお世話になりました。改めて感謝申し上げます。しかしながら戦前の本堂は八間四面のお堂に内陣、お霊屋のついた大きなものでした。多少改築したとはいえ四間間口の本堂では善性寺としては狭すぎます。年中行事、また人数の多い御法事では本堂に入りきれないことが度々あります。たまたま昨年は善性寺開創五百年にあたり、又戦後の総決算として本堂の改築に踏み切ったのです。

 

本堂の建築様式はいろいろあります。関東を中心に多く見られるのは江戸期の様式である破風づくりの屋根です。これは立派ですが少々派手過ぎます。これからのお寺は伽藍の偉容を誇り、社会の中に厳然と存在するよりは、社会の中に積極的に溶け込み、社会に働きかけるお寺でなくてはいけません。それで静かな雰囲気のある平安期の寺院形式をとりいれました。

 

幸い関係者一同この意見に賛成して、希望したものに近い本堂ができました。昔の本堂とはだいぶ違いますが、しかし静かな雰囲気があります。これから何か心騒がしいときは、この本堂におはいりになって、お座りなさってください。きっと心が和みます。